昭和44年06月27日 夜の御理解



 熊本の富永先生がお礼に出て見えておりましたが、1時のご祈念と10時のご祈念を頂いて、大変いつも感動して帰られました、おかげでだんだんあっちの教会も教会にならせてもらうと同時に、ご信者さんも何とはなしに椛目風に育っていきよると。今日そのいわれる事から感じた事は、現在合楽に見えられてからの、こ理解が非常に高度なものになったから、最近あのう椛目時代のあれを、繰り返し繰り返し頂いておりますと言う事を、言うとられましたがね。
 やっぱりあのう椛目のそのう一つの信心を繰り返し繰り返し頂くということは、有り難い事だとこう思うですね、中にあのうちょうど4時ご祈念の時に私あのう頂きましたのが、あのう熊本の方では、いろんな熊本で熊本の代表的ななんというんでしょうかね、植物でいうたらイチョウの葉イチョウですね、ですからいろんなものにイチョウが、模様が入っておりますが、そのイチョウはですねなにかこう柄を付けたように、木の葉にこうイチョウの葉がついておるとこを頂いた。
 とにかくもう皆さんご承知のように、もうとにかくそのう病気の問屋さんじゃろうかと言った様な、もうそちそれもみんな重たい病気ばかりを幾つも持っておられる方ですが、まぁ本当に信心がないのならいつの昔に、生命がなかったであろうと思われるような、中をひとつ私頂いて御用に使うて頂いておる訳ですが、今日一時のご祈念の時に、丁度あのう「寝ていても団扇の動く親心」と言った様なね、ようにそのう私が頂きますそのイチョウの葉に枝を、こうそれを長がぁい柄にして団扇にしているところを。
 また次に頂いてたんですけども、もうそのう自分は無い生命であったと、もうこの世にはあるのが不思議な位な自分である。後余生をねぇいつまでお生かしのおかげを頂くか分らんけれども、そしたら信者の為に親心を持って奉仕さして頂くということが、信心の心掛けだということを、いろいろ頂いてから実はと言うて感動しておられたんですけれども。実は家内が今朝からお夢を頂きましたのが、私がその中にそのう人間がこう川に流れてきよる、よくよく見たところがそのう富永先生であったという。
 で奥さんがびっくりしてそれを、うやって抱き抱え上げられると、それがあのう藁人形に変った所を頂いたという風に、ですからそのう「死んだと思うて欲を放して」と教祖が仰っておられますが、富永先生なんかはそういう訳で、もう自分がこの世にあるのが不思議な位だから、死んだと思うて御用が出来る、お恵みの水にこう流されている。それは富永先生だけれども拾い上げた時には。
 藁人形いわゆる「お結界にはそのう藁人形になれ」と、いわゆる自分を空しゅうした自分になれとこう言われとりますが。いよいよそこに専念さして頂いて、まぁおかげを受けなければならんと言う様な、いわゆる御道の取次者の精神でしょうけれども。今朝から頂きます御理解の中にも「無学でも人が助からん事はない」と言う様な御理解でしたがそれも取次者、けれども取次者だけではない。
 それを信者が頂くとこういう風に頂かにゃならんと、言うに頂いたように如何にこの自分を空しゅうし切ったということが、人が助かり自分が助かる事かということが分かるね。とにかくそれをなら結局言葉でいうと、その自分達が生きていく調子でいうと「死んだと思うて欲を放して」ということなんです。そういう例えば「死んだと思うて欲を放す」というところに、人も助かるだろうが自分自身がそこに助かっておるですね。
 、ギリギリのところを私は大変難しいことですけど「死んだと思うて欲を放す、」というこの「欲を放す」というところに焦点をいつも置かなければいけん。欲があるからの心配、欲があるからの悩み苦しむのですから、死んだと思うてお縋りするところに、そこに藁人形になるおかげを頂かせて頂くところに、そこにおかげがいはゆる助かる道が、本当に助かる道があると言う事を感じましたね。
   どうぞ。